2012年6月アーカイブ

dakedo.jpg 最初にエピソードが出てくるのが、ディジーとくればガレスピー。だったはずがここではギレスピー表記。いきなりこの調子で、噂に聞いていた翻訳家鈴木孝弥さんの拘った日本語表記がこれから山のように出てくるのかと思ったのではあるが、特にそんな感じは無かった。 正直なところ、日本語表記に関する問題については、あまりに雑で怠惰にほとんど何も感じてなかった。というか、感じてない文章ばっかり読んでたもんだから、それが普通になってる。というか、それが普通なんで、こうして、正確かもしれないが拘った、市民権を得ていない初めての表記を見ると、めちゃくちゃ違和感がある。さらに正直に言うと、読むのに邪魔だとまで思ってしまう。 とはいえ、こうしたできるだけ正しい発音を表記しようという心意気自体は、首肯できる。 菊地成孔さんが誉めていただけある、というとかなり偏見があるようだけど、文章、組みたてがかなり知的スノッブ的な感じが、最後まで馴染めなかった。菊地さんの文章も独特な展開。をするのだけれど(←こんな感じ)少し読むならまだしも、長い文章を読むと鼻に付く。はまる人にははまるんだろうけど、自分にはかなり鬱陶しい文章でしかない。 これは翻訳だからなのかなあ。それとも翻訳家の文章そのものがこうだからなのかなあ。ほかのものを読んでいないのでそれは全く分からないんだけど。脚注、表記などかなり意欲的で良心的ではあるがゆえに主張が強く、文章の中身を楽しむ以前にひっかかるものが多すぎる、という感じがずっとしていて内容に集中できなかった。 例えば、コルトレーンとマイルスの関係、とあり、そのあと、サクソフォニストは相棒に打ち明けた、と書く。サクソフォニストはコルトレーンのことなんだけど、それならコルトレーンと書けよ、と思ってしまう。こうした多分世間では粋な言い換えの範囲内だと思うんだけど、全編これではまったく鼻白んでしまう。文章の内容よりも文章の体裁ばっかり気になってしまうのである。 慣れが必要なのであろうが、慣れるまで読み続ける気力がどうも分からないのである。本当はミュージシャンエピソード集なんで、気軽に読めるはずだったんだけどなあ。
port.jpg 次聞いてるのが5枚組で、なかなかまた書けそうもないので、読んだ本も取り上げていくことにする。ポートレイト・イン・ジャズ2。
和田誠さんの画に、村上春樹さんが文章を付けたもの。画ももちろんすんばらしいんだけど、文章がまたスバラシイ。 もちろん、いわゆるジャズ評論ではないんだけど、田中さんの時にも感じた、ジャズを本当に好きな気持ちが伝わってくる。文章に魅力がある。本当にうらやましくなる。
ここで取り上げられているミュージシャンは、まあ、正直なところ、我が輩はそんなに好き、という感じではない。けれども、必ず通るミュージシャンでもあるので、取り上げられているアルバムそのものは聞いてなくても、全員何度も耳にしたミュージシャンばかりである。

ああ、この人の音をこういう風に書くのか、こういう風に感じてるのか、ああ、そうだよなあ。

そういった共感の中で唯一強烈に違和感があったのが、クリフォード・ブラウンに関する文章。ワタクシはクリフォード・ブラウンの音楽を溺愛してますよ。まあ溺愛という言葉の定義、意味するところがイマイチわからなかったりはするんだけど。『自堕落でだらしない弱さを含んだ芸術』(36ページ)にはもちろん惹きつけられる。けれどもそういった背景は総て越えて、胸に突き刺さってくる音楽がある。自分にとってはクリフォード・ブラウンの音楽は、まさにそういった音楽の一つだ。

村上さんは言う。『クリフォード・ブラウンの音楽を溺愛しているという人に一度も巡り合ったことがない。』(同)。そうなんだ。そうなのかなあ。
thatnot.jpgコルトレーンの例を持ち出すまでもなく、JAZZというやつは音で埋めつくす。コルトレーンは例外的にオソロシイとしても、音の羅列の争いである。
しかしながら、tyshawn sorey、この御方、そういったものとは全く逆方向に球を蹴る。4曲目に「Permutations For Solo Piano」という40分を越えるピアノソロがある。なんでドラマーのリーダーアルバムにピアノソロが40分もあるのかと思ってジャケット見たら、この人ピアノも弾くんだな。いや、そんなことを言いたいのではない。このピアノソロ、おそらくJAZZ史上、最も音の少ないピアノソロ40分であろう。
正直なところ、はっきり申し上げて、この程度自分でもデキる。と思わせるほどのシンプルさである。しか~しながら、この恐るべき緊張感を持って40分続けられる人はやはりタダモノではない。やっぱりtyshawn soreyが弾いてるんやろかしら。でもこのサイトを見たらCorey Smythe: piano (CD1#2-6, CD2#2, CD2#4-7)となってるのよね。別に誰が弾いてようが傑作にはもちろん変わりないんだけど、他のCD、曲も聴きたくなるからさあ。すでにtyshawn soreyの入手可能なものは総て購入してたりするんだけど、このピアノの人はリーダーアルバム、ないみたいなんだよね。

話戻して。このピアノソロが分かりやすく、というか書きやすくて書いてるけど、他の曲もまさにそう。一球入魂ならぬ、一音入魂。一音一義というのは、そもそも50音の一音一音が意味がある、という説らしいけど、このアルバムを聞いてると、まさにその一音一音に意味を見いだし届けだそうとしてるようだ。きっとこの調子でコルトレーンを聞くと死んでしまうであろう。というか、そもそもこのCD、2枚組なのである。2時間以上あるのである。この調子で一気に通して聞くのは、もう我が輩の体力では命に関わってくるのである。コルトレーンを想像している場合ではないのである。命がキケンだ。2008年度ミュージック・マガジンベスト1のJAZZアルバムでした。
51FmXyey0GL._SS500_.jpg予定変更。エヴァン・パーカーは田中さんの新書まとめてって時に書くことにする。今んところ、たった二人の読者に向かって書いておる訳だけど、二人とも全然ジャズに興味ないのが悲しい。
その代わり、昨日の流れの続きで、ミュージック・マガジン誌2007年度ナンバー1JAZZアルバム、デイヴィッド・トーンの「プレゼンス」というアルバムを。当時夢中になって聴いた、ような気がする。5年振りぐらいだと思うが、これまた不思議にさっばりもって分らん。しかし、このアルバムに関していえば、これでいいのだ。
もともとジャズは混沌とした音楽ではあったと思うんだけど、現代に届けられた「Prezens」はまさに混沌の極み、いろんな音楽の要素が詰め込まれてる。でも、その一つ一つを解きあかすことは「混沌七竅に死す」ではないが、音楽を殺してしまうような気がする。これはこの混沌を楽しむべきであるのだ。といって、決して一つ一つ分析して解きあかすことができないから言っている訳ではない。音楽とは、ジャズとは本来そういうものであるのである。理解したくて一つ一つ分解していくが、それが本質に繋がっていくとは限らない。

もはや分析とか解説とかそういうものは不要なのである。聴いて楽しむ。これしかおません。どこかマイルス・デイビスの難解アルバム「サイレントウェイ」を思い出させる加工具合だったりもするが、あれがジャズならこれもジャズ。音の肌触りは全くもって違うが、要求される緊張感は同じだ。
liveinlisbon.jpgいや、難解であった。何回聞いたことであろう。シャレなどではなくマジメに。2010年度ミュージック・マガジン選定ジャズ部門第一位の、ピーター・エヴァンスという人のライブ。最初エヴァン・パーカーとこんがらがったわ。
多分、きっと、おそらく音楽として楽しめるのはどちらかというとこちらだと思うのであるが、例えばエヴァン・パーカーのソロ(明日取り上げる予定である。)が自分にとってあっさりと楽しく面白く夢中になれたのに比べたら、こちらは難解きわまる感じで、いったい難解聞いたことであろう。いや、シャレじゃなくって。
 それは分からない、ということ半分、何回聞いてもドキドキが残る、ということ半分。分からないからドキドキなのか。こんなに一枚のアルバムをず~っと聞いてるなんてどれぐらいぶりであろうか。ここに書いてない期間、ずっとこれ聞いてたって感じなのであった。
 トランペットのピーター・エヴァンスも確かに素晴らしいのであるが、ピアノのricardo galloもまた凄い。ちゅうとベースは、ドラムはどうやねん、ということになるんだけど、ライヴだからこその強烈などつきあいから、スクラムまで、場面場面が実に複雑にうねりあってて楽しいが、緊張しっぱなしという感じすかね。

 田中さんいうところの「でた~っ」という音では全くないんだけど、聞けば聞くほど聞くところがある。しかしその修行に今は旅立つ時間が無い、という感じかな。ほかにも聞きたいもの山のようにあるしなあ。後ろ髪をひかれつつ、次のアルバムに向かうのであった。

 とはいえ、なんか楽しみ残してるような気がず~っとしてる。あと何回聞けば満足するのであろうか?

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