ディジーをギレスピーってひん曲げた/だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?―ジャズ・エピソード傑作選/Bruno Costemalle/ 鈴木孝弥/うから

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dakedo.jpg 最初にエピソードが出てくるのが、ディジーとくればガレスピー。だったはずがここではギレスピー表記。いきなりこの調子で、噂に聞いていた翻訳家鈴木孝弥さんの拘った日本語表記がこれから山のように出てくるのかと思ったのではあるが、特にそんな感じは無かった。 正直なところ、日本語表記に関する問題については、あまりに雑で怠惰にほとんど何も感じてなかった。というか、感じてない文章ばっかり読んでたもんだから、それが普通になってる。というか、それが普通なんで、こうして、正確かもしれないが拘った、市民権を得ていない初めての表記を見ると、めちゃくちゃ違和感がある。さらに正直に言うと、読むのに邪魔だとまで思ってしまう。 とはいえ、こうしたできるだけ正しい発音を表記しようという心意気自体は、首肯できる。 菊地成孔さんが誉めていただけある、というとかなり偏見があるようだけど、文章、組みたてがかなり知的スノッブ的な感じが、最後まで馴染めなかった。菊地さんの文章も独特な展開。をするのだけれど(←こんな感じ)少し読むならまだしも、長い文章を読むと鼻に付く。はまる人にははまるんだろうけど、自分にはかなり鬱陶しい文章でしかない。 これは翻訳だからなのかなあ。それとも翻訳家の文章そのものがこうだからなのかなあ。ほかのものを読んでいないのでそれは全く分からないんだけど。脚注、表記などかなり意欲的で良心的ではあるがゆえに主張が強く、文章の中身を楽しむ以前にひっかかるものが多すぎる、という感じがずっとしていて内容に集中できなかった。 例えば、コルトレーンとマイルスの関係、とあり、そのあと、サクソフォニストは相棒に打ち明けた、と書く。サクソフォニストはコルトレーンのことなんだけど、それならコルトレーンと書けよ、と思ってしまう。こうした多分世間では粋な言い換えの範囲内だと思うんだけど、全編これではまったく鼻白んでしまう。文章の内容よりも文章の体裁ばっかり気になってしまうのである。 慣れが必要なのであろうが、慣れるまで読み続ける気力がどうも分からないのである。本当はミュージシャンエピソード集なんで、気軽に読めるはずだったんだけどなあ。

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このページは、吉岡孝が2012年6月30日 01:39に書いたブログ記事です。

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